誕生
神奈川県藤沢市出身。海上自衛隊員の父親と、大阪商人の家で育った母親との間に長男として生まれる。3歳年上の姉と二人姉弟。
衆議院議員
神奈川県藤沢市出身。海上自衛隊員の父親と、大阪商人の家で育った母親との間に長男として生まれる。3歳年上の姉と二人姉弟。
幼稚園の頃からはドッヂボールで相手にボールをぶつけることもできないくらいの平和主義(内気、ともいいます)。徒競走も周りの人が走るのを見ながら走っていたので、いつも取り残されていました。両親は、私が何事にも引っ込み思案な性格なのを見て、いつも心配していたみたいです。
最初の人生の転機は1年生の時、何ごとにも内気だった私に担任の先生が「君は将来大成するから頑張れ!」といつも励ましてくれました。いつも居残りのような形で勉強などを教えてくれていたし、色々と指導してもらって投稿した作文が市の文集で表彰されるなど、徐々に自信を付けさせてくれました。先生のおかげもあって色々なことに積極的に取り組めるようになったし、その時の「頑張ったら頑張っただけ結果につながるんだ」という成功体験は、間違いなく今に繋がっています。
小学校5年生から中学受験の塾(日能研)に通い始めました。テレビやゲームは週1回2時間まで、が親とのルール。そのため、ドラゴンクエストなど、流行りもののテレビゲームは全然クリアすることもなく、代わりに学校の図書室のありとあらゆる本を読んでいました。
春は私にとって、とても憂鬱な季節でした。父親が海上自衛官であったため転居が多く、小学校のときだけでも3回転校しました。2年に一度、春が来るたびに新しい土地に移り住んでそれまでの友達と離れ離れ。泣きながら車に乗った記憶が今でも鮮明に残っています。でも、今となって思えば、知らない人の中にでも飛び込むことができる、知らない人とすぐに仲良くなれるという特技があるのは、この時の経験があるからだと思っています。
楽しいことも多かった小学校時代ですが、一方で、今思い返せば「いじめ」かなと思えるような辛いこともありました。当時、重度の慢性鼻炎(蓄膿症)で一日中ティッシュで鼻をかまないと鼻水が垂れてくるような毎日でした。当時の同級生からは、鼻をかんだチリ紙が汚いと言われ、学校のゴミ箱に捨ててはいけないというルールが担任の先生も黙認の下でできあがりました。そのため、毎日学校でかんだチリ紙は家に持って帰って捨てる毎日。学校でチリ紙を捨ててはいけないというルールを親に説明するのが、親に対して申し訳なかったし、悔しくて泣いたこともありました。
もう一つ小学校時代の悔しい思い出といえば、社会科の授業。授業中に、先生にあてられて父親の仕事を聞かれました。自衛隊員だということを答えると「その仕事は憲法違反だ」と言われました。学校の授業中にクラスのみんなの前で、なぜこんなことを言われなければならないのか、本当に悔しく、また悲しい思いをしたのを強く覚えています。
中学生のころから1日3時間、家で勉強することを日課としていました。通信教育(Z会)を始めてからは、英語と数学に絞って勉強していました。ちなみに、学校の試験は実力を試す場であって、見せかけの点数を取る必要もないと勝手に思っていたので、中間テストや期末テストなどの定期試験においては、直前の詰め込みを一切やらない主義でした。遅くまで起きて勉強していたという友人の話を聞いて、「僕もだよ」と話を合わせることもありましたが、試験前でも変わらずよく寝ていました。
中学、高校の間は早く寝ることを徹底していました。遅くても夜10時には(高校生になってからは11時)ベッドに入っていましたし、就寝が12時を越えることは大晦日のときに何度かあるくらいでした。よく寝ることでむしろ成績が良くなるのだと思っていました(最近の研究でそれが実証されているという話も聞きます)。身長が伸びた(185cmあります)のも、成長期によく寝ていたからかもしれません。
中学、高校とバドミントン部に所属していました。でも、小さいころからアトピー性皮膚炎で、常に身体のどこかに「あかぎれ」のような亀裂が入り、血を流していました。特に手の「あかぎれ」はひどく、バドミントンのラケットを振るたびに血がにじむ日々。ばんそうこうや包帯で手を巻きながら、痛みに耐えて練習していました。今でこそアトピーはだいぶ収まっていますが、困難に立ち向かう精神はこの頃に身に着けた、と言ったら少し言い過ぎでしょうか。
初恋らしい初恋は高校一年生の時。学園祭の催し物で「フィーリングカップル5対5」のようなイベントに参加したときのこと。一人の女性に私を含めて7人が申し込んだのですが、選んでもらうことができました。そのあと、連絡先を交換して初めてのデートに。一緒に映画を観に行ったのは良いのですが、見た映画がデートに不向き(「ツインピークス」の映画版)。観た後に行ったマクドナルドで話が全く盛り上がらず、気まずくなってそのまま消滅。あのときの自分に色々とアドバイスをしてあげたいくらい、今でも甘ずっぱくて、セピア色の想い出です。
行政機構研究会や一高東大弁論部などの勉強会サークルに所属し、官僚や政治家になりたい友人(先輩や後輩含め)とも数多く知り合うことができました。この時の友人の多くが、霞が関や永田町で活躍していて、困ったときには助け合う関係が今も続いています。
大学のゼミは商法。ゼミでは幹事を務めさせて頂きました。といっても、この時の幹事はコンパの幹事みたいなもので、ゼミの後に飲み会に行ったことくらいしか記憶にありません・・・(担当教官ごめんなさい)。
大学一年生の秋から司法試験予備校に通い始めました。実は、自分史上一番つらかったのが、この司法試験の受験時代でした。特に大学4年生の時に司法試験に不合格となってから翌年最終合格するまでの一年間は本当に辛かった。雨戸を締め切って室内を真っ暗にして電灯を付けて勉強をすることで、時間の経過を忘れることができます 。こうして一日何時間でも、文字通り朝から晩まで、とことん限界まで自分を追い詰めて勉強をした甲斐あって、翌年には司法試験に最終合格。このつらい時期を乗り越えることができたことで 、自分の人生、どんな逆境でも何とかなる、頑張れば何とかできるという自信を身に着けることができました。
弁護士時代は、本当に過重労働、早朝から深夜まで仕事をしていました。今で言うとブラックな職場と思われるかもしれませんが、過去に例のない新しい分野を手掛けることも多く、知的好奇心がくすぐられる充実した日々を過ごしていました。
弁護士時代の専門は企業法務、中でもエンターテインメントやITに関するものが中心でした。たとえば、著名な女性アーティストの独立をめぐる裁判や、パチンコ機に用いられている映像や大手航空会社の広告に使われた写真などに関する著作権侵害、さらにはインターネット上の掲示板の書き込みやスポーツ新聞の記事などをめぐる名誉棄損の裁判などを数多く担当させて頂きました。特に訴訟では、どんな事案でも、とにかく考え抜くことを徹底しました。不利に思える状況でも、一生懸命考え抜けばおぼろげながら勝訴への糸口が見えてきます。裁判官を説得できる糸口を見つけ出せたとき、依頼主の利益を守ることができたときの達成感は今でも忘れられません。
もちろん弁護士として駆け出しのころは、思い返すと顔から火が出るくらい社会的に大変な未熟者でした。初歩的なミスも多く、またホウレンソウ(報告、連絡、相談)も上手にできなかったため、先輩弁護士やクライアント(依頼者)に叱られて、落ち込むことも少なくありませんでした。しかしそんなとき、いつも周囲の同僚や先輩の弁護士、さらにはクライアントにも慰めて頂き、粘り強く育てて頂いたことに今でも感謝しています。あるとき本当にどうしようもないミスが重なり、激しく落ち込んでいたときに、見かねたクライアントがバーに飲みに連れていってくれて、「期待しているから頑張れ」と夜通し励ましてくれました。あの経験は弁護士時代の一番の思い出です。
弁護士として法律を使う仕事をする中で、新しいビジネスを立ち上げようとする方々からの相談を受ける機会が多くありました。しかし残念ながら、弁護士としての職務上は「法律上のリスクがあるからやめた方が良い」というアドバイスに終始せざるを得ない場合も多く、5年近く弁護士の仕事をする中で、法律の枠に捕らわれて課題を解決できない弁護士という職業で一生を過ごすことに、徐々に疑問を感じるようになっていました。
ちょうどそのタイミングに、先輩方に薦めて頂いたアメリカへの留学話が舞い込みました。これから本当に弁護士でやっていくのかを含め、一度頭をリフレッシュさせて自分の人生を考え直す良いきっかけになると思い、取るものも取りあえず急いで願書を出して留学を決めました。
アメリカでは、一年目はシアトルにあるワシントン大学ロースクールで知的財産法を学ばせて頂きました。シアトルは、StarbucksやTully‘sなどのコーヒーショップの街であるだけでなく、マイクロソフトやAmazonなどがあって、当時からどこを歩いていてもWi-Fiでインターネットに繋がることができるくらいITが進んだ街でした。なので、ワシントン大学にはマイクロソフトの法務部長が教授陣の中にいて、直接様々なビジネスの最前線を教えてくれましたし、マイクロソフトを休職して法律を学ばれる方などもたくさんいて、知的好奇心を満たすことができる貴重な一年でした。特に、自分にとっては日本とアメリカの法律や制度、社会を比較する機会を持つことができたのが大きな収穫でした。ちなみに、卒業論文は「日本とアメリカの表現の自由の比較 ~ゲームの表現規制をめぐって」です。日本とは違ってアメリカでは表現の自由が重視され、裁判所が表現の自由を規制する法律に対して積極的に憲法判断を行っている状況を、論文で明らかにしました。
アメリカ留学の二年目は、サンフランシスコにある出版社のVIZ Mediaで仕事をさせて頂きました。この会社は小学館や集英社等が出資するアメリカ法人で、『ONE PIECE(ワンピース)』や『NARUTO -ナルト-』、『ポケットモンスター』などの日本のアニメや漫画などをアメリカで販売する会社です。僕が在籍当時は少年ジャンプをアメリカ全土で販売していました。もともと日本のアニメやマンガをもっと海外に進出させたいという想いが強かったので、何とかビジネスの現場を見たいと思って頑張った結果、何とかVIZ Mediaを見つけることができ、一年間在籍することができました。この一年の間に、アメリカでビジネスを頑張る日本人の方々とも仲良くさせていただきましたし、シリコンバレーでベンチャー企業を立ち上げる方々のお話を伺う機会にも恵まれました。「世の中がおかしかったらむしろ世の中を変えればいいじゃないか」、という前向きな考えを持つ方が多く、そういう方と触れ合う中で、いつの間にか、「法律の枠に縛られて大事なことができないくらいなら、法律の枠自体を変えればいいのではないか」と考えるようになっていきました。
政治家になるなら知事や市長、あるいは地方議会議員といった選択肢もあります。でも私の場合はこうした問題意識があったので、法律の枠を変える仕事がしたいと思い、国会議員になることを志し、日本に帰国後、しばらくして、当時新しく結党されたばかりの「みんなの党」の公募に応募しました。そこからは、文字通り初めての経験尽くしでしたが、無手勝流なやり方で総選挙に出馬、当選させて頂いて、そのあとも色々ありましたが、現在に至ります。社会に出るまでは、全く政治家になろうなんて思ってもみなかった私が、今ではこうして国会議員をやっているわけで、人生とはつくづく分からないものだと感じています。